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ヒューマニストで自己チュウなデカルト君。暑い日は気をつけろ。

ヒューマンな価値観

この記事は満たされた時代の価値観 の続編です。


前回紹介した玉子の距離さんの後のエントリー「命を取り込む」を読めば、僕のような消費するだけの人間にも玉子やニワトリを大事にする気持ちが分かるかもしれない。僕はオーガニックな肉や玉子だけに価値を置くわけでもない。大量生産されるブロイラーにも価値を感じる。小泉首相のように大量生産に価値を感じない人動物新聞に転載されている毎日新聞の福岡記者の「死」の現場を歩く第2部を読んでその価値が分かるかもしれない。この取材は出だしからハードな内容なので心して読んでください(動物新聞は当サイトのような軟弱で胡散臭いサイトではありません)。その中で、屠畜場で働く藤本さんはこう言う。

「私はね、焼き肉する特はうるさいんよ。自分でひと切れ焼いて、それを食べたら、次のひと切れを焼きなさいとね。いっぺんにいっぱいのせて焼こうとすると私が絶対許さん。いっぺんにのせたら、すぼらかしてダメになってしまうやつが必ず出るけんね。肉はひと切れずつ、自分で食べるしこ、自分で焼いて食べなさいとね。みんなうるさかと思うやろばってん、言わんではおれんとよ」

彼は台所に神棚を設置し、手を合わせることを欠かせない。ベジタリアンが「台所は屠殺場」と歌った のを思い出す。

福岡記者の記事には第一部もあり、こちらもヘビーな内容です。毎年何十万と犬や猫を処分している現場の取材である。

犬猫の処分業務を実際に行っている人々とのやり取りの中で、彼らの口から飛びだした言葉だ。
「必要悪という言葉のあるやろう。私らはそん必要悪たい」
そう言って自らを卑下する人たちに、私は抗弁した。
「悪じゃないでしょうもん」
「悪じやないならなんな」
彼らも食い下がる。
「善ですよ」
「善?、そげなこつ新聞に書いてみない。動物愛護家からどげな抗議の来るて思うな」
この人たちに自分らの存在を「悪」とまで言わせてしまう世間の視線に憤りを覚えた私は、勢いに駆られて言った。
「抗議ぐらい来たって構いやしません。社会の安全と環境を守っているこの仕事が何で悪ですか。善に決まってます。新聞にもそう書きます」
だからここでその約束を果たさねばならない。

近隣から白い目で見られる、保健所の人たちを前にして、そういいたくなる気持ちはわかる。いい記事だし、読めば記者もいい人だと思うがヒューマニズムに毒されていると言わざるを得ない。現場の人が言い分のほうが力強いことは続きを読めば明らかだ。

この取材の中で、安楽死処分を行っている人たちに「できれば一緒に作業させて下さい」と何度かお願いした。そうすることで、少しでもこの業務にたずさわっている人たちの気持ちに近づけると思ったからだ。だが、いつも断られた。 「別に隠したいわけじゃないと。ただ、何の罪もない生き物を何十、何百といっぺんに殺すとだけんね。そんな思いをするとは我々だけで十分。ほかのもんにまでその気持ちを味あわせたくなかよ。殺さなんとは何の罪もない生き物だけんね」

善とか悪とかヒューマンな価値観なんか動物には関係ねーんだ。僕はなにも処分する職員を責めるつもりは全く無い。おそらく福岡記者と同様、肉を食べたり、野犬などのいない衛生的安全な生活を望みながら、屠殺場や処分所を迷惑施設的に扱うヒューマンな連中に怒りを覚えている。以前2万匹のコアラを処分しようとするオーストラリアの記事 でも書いたが、数十万の犬や猫は職員によって処分されているのではない。日本人総体として殺しているのだ。先日、野良犬が多いある国のドキュメントを見ると、ナレーターの言葉には、日本より衛生面で遅れている印象が含まれているように感じた。本来なら日本にも何十万と野良犬がいてしかるべきなのに、せっせと殺しているだけのことだ。

記事の最後の方に書かれているのは処分する職員の切なる願いかもしれない。

犬猫を処分する業務に携わる人たちが仕事に割り切れなさを感じている理由の一つと して、安楽死させた犬猫の体がただちに重油で焼却さ れていることも あげられるかもしれない。(中略)日本でも戦後かなり後になるまで、処分した犬の体は徹底的に有効利用されていた。

台湾リスの問題についてにせ藤沢人さん曰く、

人間は、簡単に餌付けしてしまうほど愚かで賢くないのだと思う。だから、“殺るべき でない”のかというとそうではなく、愚かな報いとして“殺す”

これはヒューマニズムを言い表している言葉であり、世間がヒューマニズムに毒されている事を悟っておられるのだと思う。ハイデッガーは「ヒューマニズムについて」で理性的動物(ホモ・サピエンス)というヒューマニズムを超えなければならないという。さかのぼればデカルトが「我思うゆえに我あり」などと自己チュウな事を言ったのが問題だった。てめえの理性だけがてめえの存在理由と言ってのける高慢ぶり。おかげさまで科学は進歩したかもしれないが、人間中心的な自然をも征服するホモ・ファーベル(工作人) となったのである。ホモ・ファーベルとしての人類は邪魔ならばリスを殺してきたのである。

僕はデカルト家の昼下がりを想像する。いたずらをする少年デカルトにデカルトの父は
父「誰のおかげでここまで育ったと思ってんだ!こら」
デカルト「我思うゆえに我あり」
父、パンチ!
今年は猛暑ですが、暑い日はイライラするので、気を付けよう。デカルト君
つづく

Posted at 2004年08月09日 00:00

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