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Push the button

前回 の続きを書くと言って、実際にほとんど書きあがっていたのだけど、翌日見ると投稿する気がうせた。すいません。続きというほど連続性がないけどちょっとは関係のあることを書きます。

以前の記事(人身と人格 )でも取り上げたのですが、夏目漱石は朝日新聞の文芸欄で、三宅という人の悪口を書いたそうだ。そしたら、そいつの子分がやってきて、取り消せと言ってきたという話がある。夏目はこの出来事に対し以下のようなことを言っている。表現は現代語に崩してあります。原文は以前の記事にリンクしてあります。

  • てめぇーこそ自分の雑誌で俺の悪口を散々書いてんじゃんか。
  • 俺なんか、自分の担当する紙面に自分の悪口の評も載せてるんだぜ。
  • てめぇーは封建時代の団隊かよ。時代遅れはなはだしいわ。(実際には個人主義を是としない国家主義が強い時代背景だが夏目は両主義並存しうるといっている)
  • 事実の問題ならともかく、批評なんだからしょうがないじゃん。
  • 意見の相違はたとえ親しい間柄でも、どうすることもできない。
  • こちとら個人主義でやってんだよ。
  • あたしゃねー、人の意見の発表に抑圧したことなんてないよ。

おもしろ。夏目さんにトラックバック送ろうかな。えっブログやってない?とっくに死んだ。あっそう。当時まれなイギリス留学を経たからだと思うが、100年前にしては、前衛を走っていたというか、戦争を経て100年間の進歩が鈍い気もする。だって人のブログにコメント書いたら、立ち入り禁止を食らったばかりか、僕を擁護する人のコメントまで禁止する人を見たことがある。

批評好きな吉本隆明氏が二十数年前に大西巨人氏と「素人の時代」と称する対談をした時にこんな事を言っている。

どんな無知な人でも、専門家でなくても、政治をやろうと思うんなら、ボタンを押せばできるというふうな、そういう段階に入ってるのかもしれないとぼくは思ってるのです。(中略)素人さんも玄人さんもそんなに変わらないという現象も出てきました。歌手なんかがちょっとテレビのオーディションかなんか受けたら、うまいし、顔もいいから、少し訓練して売り出したら、何かいっちょう前に歌ってたというのと、何か書いてたら、いつの間にか芥川賞もらってた、そういうのが同じになってくる。大西さんが小説書いて、本を作ったら、それがテレビのコマーシャルに出てきた。見てるものがちょっと関心持って、ボタンを押したり大西さんの顔も必ず出てきて、すぐ分る。あ、そうか、こういう顔をしてる人が書いたのか。そういう具合に必然のようになると思います。

まるでネットやブログを予見してるようでボタンを押すというよりクリックと言って欲しいが、素人の時代ははじまっており、そのときから時代がいったん停滞気味なのかもしれない。プロの書き手でも幼稚な人が現れたのも、素人の時代の流れなのかもしれない。たとえば吉田望氏は趣味の批評家から酷評を受けてプロファイリングごっこを試みている。批評内容よりも批評家の人身にこだわっているのが散見できる。

今はボタン一つで言論を公開し、またそれを批評する事ができる。僕は時々、僕が行う批評まがいの自己主張を人格攻撃と呼ぶ。意見というのは帰納的だろうが演繹的だろうが感情的だろうが、ひとつの事象や一般的な事からその意見や理論に至るまでの論理が記されている。その論理過程こそ人格に他ならないと思っている。直感的なものでも、その過程がはしょられてはいるが、それでも事象から意見までの間には人格があるのだと思う。文章の公開は人格をさらけ出す事でもあり、攻撃されうる覚悟がいるのだと思う。

人身攻撃すること、つまり人の属性を批判する忌まわしき行為は、属性を選んで攻撃する事に通ずると感じるので、僕は大組織/個人とかセレブ/庶民、などのわけ隔てなく論理や意見にむかついたら苦情を表明する。匿名じゃないとできないし、女子は別。うわ軟弱。

吉田氏を幼稚だと思うのも、人身を気にすること事態が、ヤクザまがいであり、人身攻撃に通じるものだと思う。そのプロファイリングが間違っていた事を反省されているようだが、見直すべきは勝手に人のプロファイリングを公表しようとする人格であろう。

『マンガ嫌韓流』を読んでいないので内容はわからないが、その書評をめぐって以下の言葉に説得力を感じた。

「嫌いなものを嫌いと言う」ことを嫌うべきなのは、それが相手の反論、いや返答の余地を完全に奪ってしまうからだ。「ここが悪い」という指摘であればまだ「改善する」という返答も「いや、それは悪くない」という反論も可能だが、「嫌い」は解答不能である。「嫌い」と言ったとたんに、対話はもはや成立しなくなる。「嫌い」を嫌うのは、実は言論の自由なのである。とはいえ、好悪の感情は人間、いや動物としては避けられない。好き嫌いという感情そのものを否定するのは、不要な自己否定であろう。だからこそ、好き嫌いを表明するときには、なるべく条件を絞り、理由を説明するのが大人としてのたしなみとなったのであろう。(404 Blog Not Found「嫌よ嫌よは隙のうち」より)

「嫌い」なんて残酷なこと言ってのけるのは花占いでちぎられる花びらだけにして欲しいものだ。たぶん「説明もなく嫌いなんて言わない方がいいな」と受け取る人が多いと思うが、僕は「書きたい人は人に嫌われようが書け」というふうに解釈する。実際にこの言論空間は大人だけで構成しているものではないのだから。僕は中学のときelevenは許せてもtweleveが嫌いだった。でも僕が嫌いでもtwenteenは間違いである。嫌われることと間違っていることは違う。僕自身が嫌いといわれる覚悟はできている 。花占いなら僕を半数以上嫌いでも半数近くの花びらが好きといってくれる。でもいきなり花びらの枚数数えて、「はい偶数。嫌い決定」とやられちゃ嫌よ。

本当は時代の停滞なんかじゃなくて、ボタンを押しまくれば、なんかいい事あるかもしれない。(BGM:Money Mark「Push the button」、Chemical Brothers「Push the button」)

Posted at 2005年10月02日 23:55


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コメント

ysms(nomadica) からコメント

こんにちは、TBありがとうございます。
「好き嫌い」も、友人、知人、著名人など、その人柄、性格を知っている人の意見であれば、それで説得力を持つと思いますが、ネット上は文字だけの世界であって、感情を伝えることが困難だと思います。
だからこそ、どういう人か知りたい、という欲求が強くなってしまうのも事実だと思います。
いずれにせよ、ネット上では、落ち着いて話をすることも限界があると思いました。
今後もサイトを時々拝見させて頂きたいと思います。よろしくお願いします。

Commented at 2005年10月03日 02:10

鳥新聞 からコメント

コメントありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。
ysmsさんは、終始すごく落ち着いておられたように思います。
僕ならもっと感情を織り交ぜたと思いますが、そのへんは僕の趣味の悪さで、少なくともレビューを下げるような事はしなかったと思います。

Commented at 2005年10月04日 00:36

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