自由とは他者に対する不自由である
相反する命題が横行する時、たいてい両方間違いと思っている。両方正解として「状況による」とか「適切に判断する」というのは安易である。安易というのは危険ということである。
こちらでも同様のことを書いたのだが、○○は自由である、という命題が立てられる時、自由を得られると同時に、不自由が科せられる。仮に殺人の自由なるものがあったら同時に殺人を尊重しなければならない不自由を負うのである。
大島保彦という方が「人は人を殺していい」と説明されたのが、誰に対する何の説明かはわからないが、殺人していいと言える立場には無いだろう。ただ殺人があるだけである。
好意的に解釈するなら、今まさに殺される刹那、その空間において「人は人を殺していい」かもしれない。瞬発力があり殺気の読める敏感な方なら、一瞬早く相手を殺すかもしれない。殺人は悲劇になっても喜劇にはならない。悲劇が起こらないようにするには、皆が殺人しないか、皆が殺人に遭わないかである。これらは相反するわけも無く徳保氏が言いたいのは後者であろう。ただ徳保氏のレトリックは対象を絞るべきであり、大島さんの説明が何の講義か示すべきだろう。
皆が殺人しない事も、皆が殺人に遭わない事も完全には履行不能なのである。どちらか一方に通用する言説はするべきでない。対象を絞って殺人をしたい皆さん!いけませんよ!と言うか、殺人をしたくない人!されるかもしれませんよ!と言うべきなのである。対象を絞らないなら、不自由を科すべきなのである。
明治初期にあだ討ちが禁止されたのは、西洋の真似に他ならないが、それまではあだ討ちしていいかどうかは御奉行様の許可が必要だったので、禁止令で肩の荷が下りたことだろう。「ねえねえ、あいつ恨みあるから殺していい?」なんていちいち聞かれて「やって良し」たら「ここはひとつ穏便に」とか答えるのも大変だったろう。
その機能は司法に移されたと言えるが、よほど野蛮な国で無い限り死刑は廃止している。必ずしも「人を殺していい/いけない」に結論を出す必要は無いと思うが、答えを出したければ、両方正しいとする判断は安易で乱暴であり、両方間違いとする判断は慎重で臆病であり、どちらか一方を選択するのが真っ当だろう。
単純に「殺人はいけないが、殺人される事もある」ということである。珍しくも何とも無い答え。ひねくれ者がもっともらしく言うなら、「殺人がいけないというのは間違いであり、殺人がいいというのも間違いである」
Posted at 2005年11月08日 00:23
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