遊び一元論
動植物学者でもあった社会学者カイヨワは『遊びと人間』で遊びについて考察をし、宗教学的な言葉「聖・俗」二元論をもじって人間の営みについて「聖・俗・遊」の三元論を称えた。中世の頃は遊ぶのは貴族だけの事で、普通の人が月曜から土曜まで働くことが「俗」で、日曜日が教会に行く「聖」であった。日本にも「ハレとケ」という民俗学的言葉がある。お祭りとか非日常的なのが「ハレ」で、日常が「ケ」である。お祭りは元々遊びではなく神事であったわけだから、「聖・俗」に似ていると言えるかもしれない。その二元論に「遊」を加えたのである。人間が遊びを獲得したのは割と最近の事なのだ。
WIKIPEDIAの遊びの項目にこうある(参考)。
ほとんどの高度な知性を持った生物には遊びが見られる。これは生物が生きていく上で必要な体力、知識、経験などを自然に得るために備わった性質だと考えられる。動物は遊びの中で狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。動物は成熟するとあまり遊ばなくなるが、ペット化された犬や猫などの動物は成熟後も遊びたがる傾向があるようである。
大人でも遊ぶのはペットと人間くらいのようである。またWIKIPEDIAによれば歴史家ホイジンガは著書『ホモ・ルーデンス』で「人は遊ぶ存在である」といい、ゲーテと並ぶドイツの詩人シラーは『人間の美的教育について』で「人は遊びの中で完全に人である」という有名な言葉を残している。
遊びやケンカの仲裁 を獲得したペットと人間は動物学的に見て幼稚といえるのかもしれない。シラーの言葉をもじれば幼稚である時こそ人間であるのかもしれない。だって他の動物は幼稚だったら野生をやってられない。
Posted at 2005年04月06日 23:57
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コメント
カルティエ サントス からコメント
コーチ
Commented at 2013年09月19日 00:42
Fitness dvd からコメント
ラジコン自体が盗まれたり空中衝突とか
木に引っかかってたりとか笑えそうなヤカン
Commented at 2014年01月15日 00:48