予見と主観
社会学の起源はオーギュスト・コント(wikipedia)という人が始め「予見するために観察する。」という言葉を残しているそうだ。
僕の社会学的素養は、反社会学講座を読んだだけだ。だいぶ前に面白くて全コンテンツを読んだが、昨年に加筆修正され出版されたようだ。これはあくまで社会学でなく反社会学であるということは分っているが、大雑把な社会学に対する僕の見解は、社会的な主張を科学風味な味付けをしたようなものだと思っている。その科学風味が功を奏したら、説得力をもつだろうし、科学味がお気に召さない人は、別の科学味を持ち出す。
現実的には細木和子でもない限り未来社会を予見する事など出来ないし、社会学者の予見はすべて主観であると思っている。主観が悪いわけではない。ただその学者の主観を鵜呑みにして「常識」だとか「明白」とするのはムカつきを覚えることがある。
反社会学講座「第2回キレやすいのは誰だ」も面白いが、説得力があるからといって、内容を鵜呑みにしてはいけないということは、トップページの警告に「反社会学は社会学の手法や論理を誤用し、無意味でくだらない結論をみなさんに押しつけようとします。
」と書かれてある通りであり、そこで学ぶものは、下手な社会学かぶれへの戒めだと思う。
以前に宗教の勧誘に出会ったときに、「最近凶悪犯が増えているのは、心が病んでいるからです。」などと言われた事があるが、それは社会学かぶれである。「最近」と「が増えているの」を取り除けば主観だけが存在しているのである。
しかしながら、その宗教勧誘のお姉ちゃんの社会学かぶれを貶すことは出来ても、主観部分は揺るがす事は出来ない。「凶悪犯が増えている」という部分だけを批判したところで、それまた社会学かぶれに過ぎず、彼女の「心が病んでいる」という主張には、説得力をもたせるための言説が他にいくらでもあるんだろう。
それは何も社会学的な手法を使わなくても、文学的表現力でもいいだろうし、何か別の表現を使ってもいいだろう。しかもお人柄も器量も良いお姉さんが、「人の心が病んでいるの」とナウシカみたいに訴えようものなら、「病んでる奴め何処にいる!由々しき事態だ。お嬢さん僕が守ってあげます。お茶でも。」と容易に説得されてしまうかもしれない。
僕は予見は全て主観であると思ってはいるが、同時に世の中の決め事や会議などは割と主観で決められていると思っている。観察やら分析といったものは現状を理解するためにも説得力をもたせるためにも必要であり、情熱や才能の現れだとも思う。少なくとも予見なら、自分のために何もしないのでなく、未来の為に一歩踏み出す主観であって欲しいものだ。
Posted at 2005年06月07日 23:23
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