共感とは快感である。「人の痛みが分かる人間になれ」と言うべきでない。
共感とは快感、痛くない
子供のころ、「人の痛みのわかる人間になれ」と言われたような気がする。別にいじめっ子だったわけでもないが、最近「藤沢生活」の記事に寄せられたコメントを読んでその言葉を思い出し、しばらくするとそのセリフは使ってはいけない言葉のような気がしてきた。グリーンマイルに出てくるような大男のように実際に痛くなるわけじゃないのに、額面どおりに受取ってしまうと、人の痛みを理解したとたんに、快感になるのではないか。
理解することはけっして悪いことではない。理解できれば直接人を痛めることも減るだろう。実際に痛んでいる人の気持ちが分かり、その痛みを根拠に何か行動するのもすばらしい。だからといって、痛みがやわらぐなどと思っちゃいないだろうが、行動に没頭するあまり元になった痛みを忘れてはいけない(性急な日本人 )。「人の痛みのわかる人間になれ」といわれたことを思い出して、俺って分る奴だなという快感が癖になり、自分が痛むことは断固拒否していないだろうか。
もし東アジア、東南アジアに旅行に行って、「俺のじいちゃん日本人に殺されたんだ」とか「俺のばあちゃん、日本人に犯されたんだ」と言われて、「アイム ソーリー」と言う人がどのくらいいるだろうか。そのじいちゃんやその孫に共感することは痛みではない。間違ってはいけない。共感とは紛れも無く快感である。やりたくない事をやるのが痛みである。ソーリーと言うことの痛みを日本人は持てるだろうか?「そんな昔の事は知りません」というだろうか、「私は戦争には反対です」、とか「当時の日本政府を憎んでいます」などと言うのだろうか?責任を問われているわけでもないのに、私には責任ありませんみたいな態度は、被爆者にアメリカ人が「あの投下は必要だった」というのと同じように思う。
とある会社の宴会で平社員の僕と部長の席が近くなり、僕は実際に困っている会社の嫌な点を話した。無粋かもしれなかった(が利潤追求とは直接関係のないモラールの問題で勤務中に相談するような事ではないと思っていた)。部長がごちゃごちゃ何を言ったか覚えていないが、部長の不機嫌そうな顔は今でも覚えている。もし突然だれかが「俺の祖先がお前の祖先に殺された」と言われたら、たぶん僕も同じような顔をするのだろう。
現在、イラクからの自衛隊撤退を主張する人に、イラクで活動するジャーナリストやNGOの人が死んだら、小泉のせいだ。というのも同じ精神を感じている。ジャーナリストがイラクで亡くなった事で言えるのは「ソーリー」であり、似ているけど「総理のせい」と言うのではない。戦争反対を訴えたいのなら、イラク人の被害に目を向ければ十分だ。自衛隊の撤退を主張するなら、自衛隊が実際に行なっていること、米軍の支援内容や、イラク人の評判などをまずレポートするほかない。アメリカがベトナムから撤退したのが反戦運動の成果だとしたら、ジャーナリストやアメリカ兵が死んだことではなく、ジャーナリストが写したアメリカ兵が行なったベトナムの悲惨さがそうさせたはずだ。
アメリカ人がベトナム人の痛みを理解してベトナム反戦運動をしたとしても、反戦運動は快感でしかない。現在の自衛隊撤退の主張そのものも快感でしかない。それが悪いことではない。快感に浸って、ベトナム人ご免なさい、被害者が可哀想というのを忘れていなかっただろうか。それを繰り返すうちに快感が癖になって、自分が痛む場面に身を投げ出せなくなっていないだろうか。
自分の息子が友達に怪我を負わせたとする。親が友達の家に謝りに行くと少なくとも二つの行動があるだろう。先方に謝る行為と自分の息子を殴る(しかる)行為。そのとき自分がやりやすい行動になっていないだろうか?人に謝るのが嫌な人こそ謝れ。息子が大事で殴りたくない人こそ殴れ。自分の息子を殴るだけの人が、単にパフォーマンスで殴り、殴っても少しも心を痛めないとしたら目も当てられない。子供の行動に親が責任を持っていればの話だけど。ドラマの見過ぎか?
むしろ「人の痛みのわかる人間になれ」などと難しいこと言わない方がいいかもしれない。「人を痛めるな」でいい。それでも痛めてしまうこともあるだろう。そしたらソーリーだ。それから自分を痛めよ。逆に痛いときには痛いと言え。ごくシンプルな事だ。そういう僕も酒を飲んでは口を滑らして傷つけるような事を言ってしまうことがある。その度に僕は反省してしばらく酒を断つ苦痛を味わっています。
Posted at 2004年06月21日 02:39
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この記事のタイトル: 鳥新聞: 共感とは快感、痛くない