少年事件は誰のせい
万人による闘争
長崎の幼児誘拐殺害事件は中学1年生が犯人としてパクられた。数日後東京で行方不明の小学生4人が発見された部屋で自殺と思われる29歳の男が遺体で見つかった。長崎の12歳の犯人は4歳の男の子に性的ないたずらをした上で屋上から突き落としたとされていて、他にも男の子にもいたずらをしていたという報道もある。ある大臣はその中学生の親に対して「市中引き回しの上、打ち首に すればいい」と言った。一方で東京の自殺者は小中学生の女子を使ったデーテクラブを運営している男で、4人の少女とも顔見知りであったとも言われている。その大臣はこの事件を称し「どっちが被害者か分からない」と言った。タイムリーに12歳が主人公の事件が続き、大臣がブラックなコメントをし、ニュースがバラエティー番組化しただけでなく政治家もコメディアン化したなあと感慨深いものがある。もちろん彼の発言すべてが報道されていたわけでないが、テレビに真実や教養など求めていない、面白いものがただで手に入ればそれでいい。マスコミもそのように編集してくれている。その発言の前後に何を言ったか分らないのは、多分面白くないからだろう。前者の発言は表現の問題はさておいて、親の責任を追求する論者が賛同している。後者の発言は大臣がサスペンス作家の影響を受けていると思わせるところがおもしろいが、うさんくさい掲示板を見ると売春するガキも悪いんだとか、果ては自殺でなく少女が殺したといっている。渋谷の街頭インタビューでは小学生を連れた親が、「この子勝手に行くのよ。困るわー」なんて言っていた。まるで他人事だ。万人による闘争はこんなところにまで浸透している。かつてホッブスは自然状態では自己保存のため「万人による万人対する闘争」が起こると言った。現在は一応、闘争が起こらないよう法律やら社会や国家が秩序を保っているわけだが、親と子、大人と子供の闘争には目が届かないようである。親は子供が勝手にしたと言い逃れる。特に子を持たなかったり、できなかったり、すでに子供から手の離れた親は、自分に害が及ばないことが分かれば、子供を責めてくる。あるいは老人や一生独身の大人たちは子供をもつ親を責めてくる。
弱きをくじき、強気に従う世
しかし悲しいのは、子供には大人に対抗するすべを持たないのだ。当然だ。社会で行われている闘争は基本的に大人が作ったルールで行われる。子供はアウェーで戦うようなものだ。時にそのルールでは、高価な道具が必要だったりして、大人でも四苦八苦してる。戦後の物資がない時代の子供が野球するのに硬球を使うようなものだ。グローブがないと怪我するし、グローブを買う余裕はない。大人は基本的に子供を馬鹿にしている。その第一の原因が自分も経験したと勘違いして彼らのことを分かったようなつもりになっているのだ。しかしその大人たちも老人との闘争に冷や水を飲まされている。老人は財力はともかく肉体的な衰えを強力な武器にしている。老人の予備陣は将来自分の安泰のため老人にやさしくせざるを得ない。したがってその闘争には同じ大人のルールで妥協点が見出される。さらにこんな時代に矛盾して、この世はなぜか弱者を助けるべきという風潮がある。こんな風潮で老人を批判するのはよほど勇気があるか、現代版のねずみ小僧か、若くして死を覚悟している者くらいだろう。老人に意地悪していることが回りにばれると大変なことになる。老人は言葉も金も行動をとる術を知っているのに対して、子供はそれらを持っていないもんだから、子供をいじめても子供が恐ろしい抵抗をしてくる可能性は少ない。普通の大人は誰でも老人になるが二度と子供の立場に戻ることはできないので、子供に対していくらでも厳しくできる。ここに妥協点のない永遠の闘争が存在している。このような闘争は宗教対立と大して変わらない。俺は残念ながらもう子供でないので、子供の気持ちは分からないが、いつの時代でも「大人はわかってくれない」という主張があるのは事実で、なにか大人と子供の間には相反する原理が横たわっているのだ。複数の一神教の間には唯一が複数存在するので当然に矛盾と対立が生まれる。この問題の解決は簡単だ。会わなければいいのだ。話をしない、聞かなければいいのだ。「住む宇宙が違う」の一言で片がつく。どうだ。住む世界というと、世界が違っても神はひとつだと言い返されそうだけど、宇宙が違ったら「あはは、宇宙が違うのか。じゃあしょうがない」とならない?下手に飛行機が安全で運賃が安くなったのが宗教対立の原因だ。宇宙が違えば矛盾があるのはあたりまえ。未開の地に人食い人種がいればそこに行かなきゃいいのと同じだ(それでも自由を狂信する人はピストル持って上陸するが)。ところが大人と子供の対立はそういうわけには行かない。解明されない矛盾がありながら一緒に生活をしなければならない。なんと悲しい生き物なんだ。挙句の果てに大人になってしまうのだ。
人を憎んで、罪は罰の指標
まずなぜ少年法なのだ。フェミニストたちはmanのつく単語をpersonに替えてきたが、男と言う意味の「漢」という字のつく無頼漢とか暴漢という言葉も変えられてもよさそうだし、少年法も子供法とか少年少女法でもいいんじゃないの。まあどうでもいいけど少年法は少年以外の人から、条件や罰を少年にとって厳しいものにするよう求める声がある。厳罰化を求める人の言い分は少年犯罪の増加、低年齢化、凶暴化なんて説得力のないことを言っているが、思うに凶暴化しているのは厳罰化を求める側のほうで、「罪を憎んで人を憎まず」なんて言葉は死語になって今の世は「人を憎んで、罪は罰の指標」である。法律、判例を考えればありえないのに、死刑を求めるのはどう考えても凶暴だ。こどもは(大人が言う)常識にそむいた行動をとることがあるが、一般的には大目に見てもらえる。なぜなら悪意がなかったり、ある程度の悪意があったとしても自分の行動によって起こる結果を予測できる能力、予測させうる経験がないらだ。もちろん大人でもこういった能力のない人、予測させ得る経験はあってもそれを記憶する力のない人や悪意のない人は大目に見てもらえる。それでもなぜ大目に見てもらえるのだと解せない人に子供はいくらでも更生できるといっても、説得力がないので乳幼児がナイフで人を指すことを想像して欲しい。乳幼児による殺人を乳幼児の責任だと言う人について考慮するまでわたしには想像力がない。何歳を臨界点とするのかと言う論議をするつもりはないが、日本では14歳とかアメリカでは13歳とか国会が適当に決めている。現実的には個人差があるはずで少年かどうかを判定する基準が年齢以外で、たとえば陰毛が生えているかどうかなどで判断するならば少年法から年齢の記載はなくなるはずだ。多分少年法は大人の包容力みたいなもので、子供が何歳になるまで大人は責任取れるかの問題で、大人に任せてほっておいたら、下がる傾向になるだろう。だって責任とりたくないもん。ペットを屋内で飼うようになったのもそうだと思う。ペットが人を食ったり怪我をさせたら本人(本獣?)が責任を取るわけには行かないので、買主が尻拭いをしなければならないからだ。(ペットを飼うことにそこまで責任を感じている人がいるかどうか分からないが)子供に残された道は少子化を武器に彼らの価値をもっとアピールするしかない。
不毛な論議
こどもが事件に巻き込まれたり起こしたりすると、彼らのことを大目に見なきゃいけないので、じゃあ誰のせいだと言うことになる。テレビでも何が悪いかを問うアンケートを行っていたが、一番多いのは「親のせい」と言う意見だった。責任をとるのが親なのは確かだが、15歳未満の子供を持たない人が私には関係ありませんといっているような気がしてしょうがない。少年法適応年齢を13歳だ12歳だと論議するのと同じように、親のせいだ、学校のせいだと論議しても無意味なことに思える。論議しても結論など出ないだろうし自分で勝手に結論を出したところで、どうせ自分には責任はないんだと安心して終わり。だいたい子供の犯罪を一くくりにできるものだろうか。それぞれの犯罪にそれぞれ別の問題があるはずである。ましてや親を打ち首にしろといっても、じゃあその馬鹿親を育てた馬鹿親には責任はないのか。「ヒツジえもん」という、ドラえもんをパロッた寓話で未来からきた羊型ロボットが未来の罪人に対する罰を執行するため、その未来の犯罪者の3世代先にさかのぼって、抹殺するためにタイムマシンに乗ってのび太の前に現れると言う話だ。ばかばかしい話だけど、国家や国務大臣が子供が罪を犯したからって親を殺し始めたら、てめえのところにドラえもんが殺しにくるぜ。子供時代のことを忘れた大人が子供一人一人の人格や環境を無視して子供全体の問題にするのは、子供が「大人はみんな汚い」というのと同じだ。
俺のせいでーす
「うちの子に限って」ってと言うキャッチフレーズは20年程前にテレビドラマのタイトルにもなったが、当時その言葉には「うちの子がそんなことするなんて思いもしません。だから責任ありません」というニュアンスが感じられたのではないかと思うが、最近では「うちの子もそうかも」という標語が生まれていて、「うちの子に限って」というのは少年犯罪者の親がとる正しい反応になり、「うちの子もそうかも」って言ってしまうと犯罪を犯す可能性を認めながら野放しにしたと批判される。そこで少年犯罪適齢期の子を持つ親たちは自分の責任にならないよう、少年法の年齢の低下とか、学校教育あるいは社会の責任を主張するのだ。どいつもこいつも人のせいにすることしかしらない。っていうか何のせいだと言ったとしても利害の闘争としか見えない。誰かが「私のせいだ」と言わない限り。 もういいよ。俺のせいで。
2003年8月
Posted at 2003年08月10日 20:46
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