ワールドカップテレビ観戦
ワールドカップサッカーが始り毎日テレビ中継が楽しみだ。僕は同年代の多くと同様ににわかサッカーファンだ。日本にプロサッカーリーグができて未だ10年にもなっていなくて、子供のころはプロスポーツのテレビ中継と言えば野球かプロレスだった。プロレスはゴールデンタイムの放送から消えたころに情熱もなくなった。今でこそK1やPrideが大衆的な人気を得て不定期にゴールデンタイムを獲得しているが、プロレスはマニアックな世界という感が否めない。やはり日本においては野球がもっともポピュラーなスポーツである。
高校生のころ正月休みに友達とマージャンやカルタをしている時、サッカー部の奴が高校サッカーのテレビ中継に熱中していた。誰かが「サッカーってルールが良く分からんしつまらん。」というと「サッカーは見るもんじゃない。やるもんだ。」と言ったのを覚えている。それは彼も見ていてつまらないと言うのを同意していて、ただ自分のプレイの参考として見ていたのか、自分の好きなサッカーの悪口を言う奴に対して「ルールの知らん奴は黙っとけ」と言いたかったのか本心はわからないが、内心は僕も野球のほうがおもろいなあと感じていた。
「野球は9回裏2アウト3点差あっても終わるまで分からないが、サッカーは残り時間が少なくなって3点差あると絶望だ」とか、「日本は農耕民族だから狩猟民族のスポーツであるサッカーは向かない」とか、野球好きのスポーツライターの記事を読んでなんとなく納得したこともあるが、サッカーだろうが野球だろうがいい試合は面白いのだ。日本戦しか見る気がしないといっていたにわかサッカーファンも昨日の「フランス×ウルグアイ」は面白かったはずだ。点数こそ入らなかったが赤や黄色のカードが飛び交い、両チーム負ければ予選敗退という状況で死に物狂いで相手とぶつかった。野球には少ない接触プレーの連続だった。
一度Jリーグができて間もないころ、国立競技場に見に行ったことがあるが、ゲーム内容はぜんぜん記憶に残っていない。遠くにいる選手のボールを蹴りピッチを駆ける躍動感のある足よりも、近くの一緒に行った女の子のなんの変哲もないひざ小僧に注目していた。それでもこれまでプラティニがいたフランスのクラブチームがTOYOTAカップで勝ったときやマラドーナ率いるアルゼンチンがワールドカップで優勝したときなど、なんとなく覚えている試合もある。もちろん最近行われたシドニーオリンピックや前回のワールドカップの日本も覚えている。
オリンピックやワールドカップは4年に一度のお祭りで、日常のスポーツ観戦とは違うと言う人がいるかもしれない。確かにワールドカップは国を代表して大きな名誉と報酬を背景に必死に戦っている。一方で最近Jリーグの観席は閑古鳥が鳴いているようだ。以前ヨーロッパのとある町のサッカーチームの踊り狂うサポーターのインタビューで「サッカーなんか見ちゃいねーよ。相手チームを威嚇しているんだ。」と言うのを聞いて、高校のときの友達がいった言葉を思い出した。彼らサッカーサポータは見ているんじゃなくて参加しているのだ。野球中継を見ながら、「てやんでい。そこはストーレートだろ。カーブで逃げちゃだめだよ。」などと解説者気取で腕を組んでいる観客とは違うのだ。もちろんそれもスポーツ観戦の楽しみ方の一つであることはわかっている。中には応援で試合に参加できるわけないじゃないかと言う人もいるだろう。私が応援を受けたと言ったらせいぜい中学生の運動会でリレーの選手だったとき位のもので、競争相手にも同様の声援があったわけで、たかが100mか200mの短距離で自分の実力以上のものが声援によって引き出されるとは思えない。また声援は決して選手の集中力を高めるものではない。一流のゴルフの選手がパットに集中したときは回りの音は聞こえないと言うのがその根拠だ。従ってさよならホームランを打った野球選手がインタビューに「声援の後押しがありました。」というのは嘘くさい。観客に対する社交辞令で表現力のない選手が恥ずかしげもなく嘘までついて媚びへつらっているのか、観客動員を促す常套句かもしれない。集中力はホームランの必要条件のはずである。ならばホームランを打った瞬間およびその前に応援が聞こえていたとは思えない。大活躍の日本代表稲本を追っていると、さっきまで自陣で好セーブをしたかと思うと、次の場面では遠く離れた敵陣でシュートを打っている。あの広いグランドでとてもつもない持久力がサッカーでは求められて、時には身を削られるようなスライディングや空中戦には勇気なんて物もいるのかもしれない。そんなときに声援が味方になってくれるのだと思う。
私はTVでスポーツ観戦をする時、パソコンをいじりながらであったり、雑誌かなんかのページをめくりながらのことがままある。野球の場合ピンチやチャンス、話題の選手の打席や投球になると、私の手は止まる。攻守や選手の出番が明確になっている野球の場合、私が注目する場面と言うのはある程度周期的にめぐってくる。しかしサッカーの場合いいシーンを見ようとすると目が離せない。もしぼんやり見ていたり見ることに集中していないゲームはつまらない。今回のワールドカップを私はもっぱら一人でテレビで観戦している。別にさびしいわけではない。ただ正しいサッカーの見方ではないのではないかと思う。前回のフランスワールドカップの決勝トーナメントのとき私はイタリアの安宿に滞在していた。サッカー中継の時間になると主にヨーロッパのバックパッカーがテレビの置いてあるリビングルームに集まって大騒ぎして見ていた。スペインを一人で旅行しているとき、晩飯はいつもバーに行った。スペインのバーは安くて、おいてあるつまみも大好きだ。ある地方都市のバーで込み始めたなと思うとスペインリーグのサッカー中継が始まった。スペインであればどんな家庭でもテレビぐらいあるだろう。しかしみんなと一緒に騒いで見るというのがサッカーの見方と言うかサッカーの参加の仕方なのだろう。料金後払いのスペインのバーで酔っ払った客がみんな正確に会計を済ませるのか余計な心配をしたものだ。
ロングパスがサイドに出た。
ディフェンダーが走る。はやい!
フォワードがそれを追い越した。はやい!はやい!
更にその横をラインズマンが追い越した!まじかよ!
2002/8/15
Posted at 2003年08月10日 00:13
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